新しいワタシ、待ってろー

03/03/2024 § コメントする

自分も思春期、髪型や、じぶんの顔の作りのレベル、体型や足の長さ、などを意識し、気にし始めた中学一年生の時、3年生の先輩に、「河野美沙」さんと言う美少女がいました。
こんな50年も経っているのに、今でもはっきり名前も覚えているし、そのお姿もくっきり頭に中に残っています。

すらっとした、高身長に、色白で、足も長くてまっすぐ。可愛らしく、コロコロとなる鈴のような声と話し方、こんな綺麗な人がいるんだなあ、と心底、憧れた物でした。何より、長くて、真っ直ぐで、真っ黒で、サラサラの横分けのストレートヘアをなびかせ、首を、ちょっと傾けてにっこり笑いながら、同級生たちと談笑しながら、すれ違いざまに見る、その笑顔は、高貴さまで感じる美しさ。

で、自分はと言うと・・・
小学生の時から、例外なく身長がクラス1低く、鼻も団子で低く、足はO脚、極め付けは、くりくりの天然パーマの頭。身長はこれから伸びる「かも」しれない? 鼻は、洗濯バサミで摘んで寝よう。足のO脚は、ズボンで隠せるか?でも、でも、この髪の毛は?イスラム教のヘジャブでも被らない限り、隠せません。

そうなのです。私の髪の毛は、生まれつき、クリンクリン。父も、おばあちゃまも、弟も、天然パーマなのでした。当時、クルクルドライヤーなるものが出始めで、朝、鏡の前で、ながーい時間をかけて、髪の毛をなんとか引き伸ばして、学校に行ったものの、癖毛の方にはわかっていただけると思いますが、少し湿った風が一度、パーっと吹いただけでも、まるで、髪の毛は、増えるワカメ。勝手に一本一本が縮れ、勝手な方向に膨らみ、最後はバックトゥーザフューチャーの“ドク”のような髪になってしまいます。

日本人の根底の美意識は、真っ直ぐな黒い黒髪、これは、ディフォルトですよね。
そして、誰もがないものに憧れる。わかってはいるのです。が。

高校生になると、大変厳しい女子校のため、髪が肩についたら、耳より低い場所で、ツインテール、と決められていました。おかっぱ頭だったワタシ。髪のウェーブは早速、風紀の先生に見咎められ、「天然パーマ証明書」に親のサインを添えて提出するように厳命されました。なんか、自分でも嫌いだったけど、癖毛はネガティブ要因として、決定打を打たれた気持ちでした。

そして、ずっとひたすら、ひたすら、ドライヤーやら、スプレーやら、で、引き伸ばしたり、卒業後は、いっそと、パーマでカーリーヘアにしてみたり、大学生頃には、始まったばかりの髪の毛に小さい下敷きを100枚くらい貼り付けるストレートパーマを期待を込めてかけて、すぐに取れてしまい、がっかりしたり。

縮毛矯正が世の中に出てきた時の衝撃! 洗髪しても、プールに行っても、雨に降られても、何もしなくて、髪をとかして頭をブンブンと振って、そのままストレート!!!!
スポーツクラブに行って、プールに入って、そのまま上がってドライヤーを乾かすためだけにブンブンとかけて、それだけで真っ直ぐ。

文明の進化にここまで感謝したことはなかったと思えるくらいの経験でありました。

そして、時は流れ、なんだか40代後半から、髪の毛にどんどん白いものが初め、気になるので、4週間に一回、美容院で白髪染め、プラス、ずっと続けてきた半年ごとの縮毛矯正を続け続けてン10年。

髪の毛は、これでもかこれでもかと痛めつけられ、白髪の髪はどんどんどん細く、痛み、千切れて。
長女の結婚式が終わって、4年前に髪を染めるのをやめました。このままあと10年以上染め続けるのか?と思うと、賽の河原か?と思ったのと、髪の痛みが限界になっていたからです。縮毛矯正は、それでも髪が痛むのはわかりつつ、最小限にして、ストレートナーで引き伸ばしは続けてきました。

で、ここまで、話は長くなりましたが、そろそろワタシのクルクルさんたち、開放してあげよう、と思うのです。
クルクルだって、いいじゃないか。

イギリスだと、髪の毛は、色もプラチナブロンドから、赤毛から、それはそれは千差万別、チリチリから、ドレッドロック、ターバンでぐるぐる、完全に隠しまくっている人、真っ赤、真っ青などなんでもあり。白髪混じりのクルクルでも、誰もワタシの頭なんかみてないし。

まだ、クルクルヘアに自分自身慣れていないけど、これから、プロダクトや乾かし方などちょっと研究して、髪の毛、50年の強制引き延ばしから、開放してあげようかな。

こんなおばさんヘア、絶対許せない、と思って、ずっと生きてきましが、気づきました。

すでに、自分、おばさん通り過ぎて、おばあさんじゃないかー。 おばさん上等!

新しいワタシ、待ってろよー。

お葬式ーイギリスの場合

24/02/2024 § 2件のコメント

昨日、雨続きの中、珍しく晴れ間から太陽が覗く、さっぱりした日になりました。通常の年のこの時期の二倍もの雨がすでに降っているとか。

35年以上のお付き合いの、恩人とも言える方のお葬式が予定されていたので、大雨や嵐でなくて、良かったと朝起きて、ほっと。

遠い昔、日本で3年間必死に働いて、稼いだお金をかき集め、イギリスに語学留学してきた時、イギリスのファミリーとして、可愛がっていただいた、家族のご主人です。81歳でした。
建築家として成功を収め、建築を引退後は、彫刻家としても活動されていた、とても大柄で、声も大きく、ケンブリッジ大学で教鞭もとっていた、おおらかで、柔和な、でも、エネルギッシュな方でした。

子供は5人、奥様は、お父様が著名な「サー」の称号をもつ、大変にイギリス人らしい敬虔なカソリックの女性で、私が知り合った頃は、長女は、20歳くらい、一番下の男の子は、まだ小学生でした。
日本から行ったばかりで、拙い英語しか話せない私に、ご家族は、すごい勢いで、喋るは、ゲームをするわ(当時ですので、スヌーカーとか、サッカーゲームとか)、派手な兄弟喧嘩などの、ネイティブの会話の洗礼をガンガンと浴びせかけ、イギリスの男女交際の指南から、家庭の日常料理や食事のあれこれ、人をお呼びするときのやり方や、パーティーの仕切り方、別荘で、お父さんが操縦するヨットで川遊びをする、という日本では考えられない休日の過ごし方など、びっくりのあれこれを教えてくれた家族の長でありました。

ロンドンの自宅近隣ではなく、車で2時間半くらいかかる、王室も別荘を持つノーフォックの海に近い、小さな町の小さな教会で、お葬式は執り行われました。生まれ育ったエリアでもあり、別荘もその隣町にあるため、ご本人の希望もあったそうです。

小さな町の小さな教会の周りは、放牧地で、その庭に立つ大木の周りには、スノードロップ、日本語で、雪待草の小さな小さな白い花が、風にふるふると震えていました。
白黒の幕も大きな個人名の大看板もないこの国の葬儀は、三々五々、教会に集まってきて、入り口で、亡くなった方の写真の入った、式次第や、歌われる讃美歌の歌詞が書いてある、A5サイズくらいの印刷された、しおりを受け取り、着席して待ちます。

奥の祭壇には、すでに、花が置かれた棺が安置され、時間になると、牧師様の言葉で、式が始まります。オルガンで、讃美歌の際の伴奏は行われ、大体1時間弱でしょうか。家族による個人のエピソードや、数曲の讃美歌、詩の朗読や、親しかった友人の言葉なども入ることがあり、式が終わると、火葬の場合は、棺の置かれてある場所のカーテンが閉まる、または、棺がだんだん乗っている台の中に吸い込まれていって、見えなくなってそれで終わり。遺灰は後でとりに行くそうです。

今回は、土葬でしたので、故人の孫たちが棺を肩に乗せて出席者は、教会から見送り、棺の後に続いて教会に隣接の墓地に移動、すでに掘ってある墓地にそっと下ろして、近親者は、一握りづつ土をその上にかけていきます。これは、たまに映画などでも、見たことがありますよね。

そして、そのまま、三々五々引き上げていって、終わり。。

日本人としては、棺の窓から故人様への最後のお別れ? 遺灰は後でとりに行く?、とか、穴あいたままで、土ふりかけただけで、その後、どうするの?とか、香典なし? それでいいの?と言いたくなりますが、土は専門の方が、被せてくれるそうで。
そして、この国に来て、初めて葬儀に出た時、一番びっくりして、なおかつ、ああ知らなかった、のは、ご夫婦は、先に亡くなったご遺体の入った、その墓を、棺まで、のちに掘りさげて、後で亡くなった夫婦のもう片方の棺をその上に乗せるのです。

日本のお墓は、家族で、仲良く並んで墓石内に安置されるけど、こちらは、全て夫婦単位。
夫婦は、法律的にも、一心同体だとみなされるな、と感じてはいましたが、お墓もか!

そののち、場所を移して、自宅やレストランなどで、軽食と飲み物を個人のファミリーが用意して、来られる人はぜひ、お越しくださいと招待されます。そこで、故人のご家族や、同席者と言葉を交わして、亡くなった方を偲びます。

今回は、教会のお墓で、「近隣のパブで、お茶とシャンパン!(お祝いか?)を用意しているので、ぜひお越しください」
と、故人の長女さんが叫んでおりました。

服装も、黒を基調であまり華美にならない服装、とゆるいお約束はあるものの、違うお葬式では、故人の要望で、黒はご法度、なるべく華やかな色を着てきてね。と言われたこともありました。今回も綺麗な色のスカーフや、故人の長女さんは、足元は、20代の頃から、変わらず、ドクターマーチンの黒のハイカットのブーツを履かれておりました。

漆黒の喪服でないとダメとか、マナーが、とか 『きちんと、ちゃんと、しっかり』文化の国からくると、しきたりに反していないか?などと緊張しなくていいのは、もともと多様性の高い国からなのでしょう。

しかし、はて、私は、どこの国の、どこのお墓に入るのでしょうか?


イギリスで、オットが先に亡くなって、その上に載せられるのか?先日実家に帰った時に、母が、「家のお墓に一人くらい余分に入れるから、入ったら?」とありがたい?お申し出をいただきましたが、それは、ないだろうなあ。
最近のトレンド!として、棺が、植物で編まれた藤カゴのような作りになっているものを選ぶことが多いようです。今回も、また、前回出席した葬儀でも、カゴタイプの棺が選ばれておりました。
もし、私が先にお墓に入ることになり、カゴタイプの棺でオットが上に乗せられたら、オット、でかいし、重いし、潰されそうで、ちょっと嫌だなぁなどと、ちょこっと考えたのでありました。

こういうの、要らぬ心配って言うんだよね。







私って、どんな人だっけ?

22/02/2024 § 2件のコメント

月日は流れ、家族構成も変わり、気がついたら、自分以外の人や物を最優先で、生きなくていいんだ、と、気づきました。

長女は結婚し、もうすぐ5年、長男は、パートナーと家を買い、家を出て1年以上、次女は未だに同居、家にいるものの、昨年冬、ついに正式に、建築家の資格を得て、仕事に忙しく、朝晩しか家にいません。今年中に家を出ることを新年の誓いにしていました。

オットもスッパリ、リタイア。

全くの自由人で、建築家として仕事や、アルバイトをする気もないそうです。

で、私。
犬たちと、その犬友さんたちと少なくとも週2回遊ぶという生活は、昨年8月、愛犬ゴールデンのブロッサムをガンで亡くし、20年以上、犬と濃密に過ごす生活が終わり、私の1日のルーティンの8割が消えてなくなりました。

オットも子供も、犬にも私は必要不可欠でなくなり・・・・

はて、、これからどうする? 私。
何をする?これから。

で、ふと、私って、何が好きなんだった? 何がしたい?
私って、どんな人間? すっかりわからなくなっている自分に気づき唖然。

両親と暮らしていた頃は、とても厳しい両親で、本当に全ての行動に口うるさく、家から仕事に通い、結婚して、すぐ子供が産まれ、仕事をしながら、育児、子供優先、家族優先の生活をしてきたな。それは、とても幸せで、後悔は全くしていないけれど、さて、全てから解放されて、気づきました。

「私って、人生で、今が一番自由だ」

2024年は、自分優先で生きよう、したいと思っていたことをしよう、

と決意を新たにしています。

さて、どうなることやら、、楽しみにしています。

再開

19/02/2024 § 2件のコメント

唐突ですが、ずっとお休みしていたこのコラム。
再開しようか、と感じています。生活が変わり、時間ができて、やはり書き残しておきたい事があるなあ、と。自分の記録として、思ったことを書き留めるページにしようっと。
ライフワークだな。

一時帰国のあれこれ 入国14日までの自主隔離

20/06/2021 § 6件のコメント

政府の強い要請で、戻された羽田空港から、待機場所までは、公共交通機関は使えません。

ホテル隔離中、十分時間があったので、そこで、ポケットwifiや、ハイヤーの手配をゆっくりしました。

ハイヤーは厚生労働省のサイトにリストされている会社のサイトを見て、一番安いところを予約。それでも、渋谷区まで、1万2千円が一番格安でした。1万5千円が平均価格のようです。

乗り捨てのレンタカーなどを使えば、費用は抑えられるかもしれません。が、借りる手続き、返しにいく手間など考えると、二の足を踏みました。レンタカー会社の人々、お借りする時、返すときに、レンタカー会社のひとと対面したりすることを考えると、タクシーは許されてもいいのではないか?と思うことしきりでした。

が、そこで戦っても勝ち目はないので、仰せの通りコロナ用ハイヤーで帰宅。なんという贅沢!

帰宅するとまず、空港でスマホにダウンロードさせられたアプリの一つ、Overseas Entrants Locator に、待機場所をチェックインします。このアプリのパスワードは、政府より与えられ、これで、このGPSのファンクションがアクティベートされます。

以降、到着して、14日目まで、

毎日2回ほどの、ランダムに届く、Locatorを通しての、いまここ、の報告要請
毎日11時頃、厚生労働省から毎日届く、健康に対する質問のメールに、貼ってあるリンクを使って、質問に返信。
毎日、ランダムにかかってくる My SOSを通じての、ビデオ電話への応答、背景を写すことを求められる。

が続きました。

少し遠くのコンビニまでて、くてく歩いていくと、ビデオ電話だったり、ロケーターでのイマココボタンのリクエストが来たので、待機場所からある程度以上外れると監視しているところに、報告が上がる機能があるのでしょうね。これはあくまで私の想像ですが。

やっと、今、自主隔離の最後の夜の10時過ぎです。

明日、やっと、自由に動けます。日本、ただいま。

🌟My SOSを使ってのビデオ通話ですが、こちらかかけ直すことができません。スマホを置いてシャワーを浴びていたりしたら、取り損ねます。かけ直しファンクションがあればいいのに、と思いました。

Locatorは、お知らせが、ロックしたIphoneのバナーと音が一度なるだけで、バナーはすぐ消えてしまい、バッチも出ないので、掃除したりしていると気づかないことがあります。ロックスクリーンを解除したら、アイコン上にバッチを出してもらえれば、と思いました。

以上、長い顛末、お付き合い、ありがとうございました。






一時帰国のあれこれ ホテル隔離

20/06/2021 § コメントする

今現在、イギリスから日本に帰ってくると政府の指定したホテルで、6日間の隔離が求められます。
隔離が求められない国もあるし、インドのように10日間の場合もあり。私の場合は、6日隔離になる直前、滑り込みで3日の隔離が要求されました。

さて両国のアパホテルで、目が覚めて、カーテンを開けると。。。。

私の16階の部屋からは、眼下に、美しい日本庭園で、東京都の指定名勝である、旧安田庭園がよく見えました。

閉所が苦手な私は、もし、ホテルの窓の外が、すぐ他のビルで、何も見えなかったらどうしよう、と真面目に心配していたので、まずほっと。

そして、窓ギリギリの右手に、スカイツリー。2時の方向に、アサヒビールの会社の前に立つ、有名な、金色の空飛ぶ、う●こが見え、隅田川ものぞめました。川を船が行き来しているのをぼーっと見ることができたのは大きな慰めでした。

しかし、アパホテルをご存知の方はお分かりと思いますが、何しろ部屋が狭い。
ホテルのサイトによると、一部屋11平米しかなく、その中に、トイレ、バスタブ、ダブルベット、小さいデスクに椅子が入っているので、スーツケースを広げる場所もありませんし、スーツケースは、ベッドの下に置かないと、ドアも開けられません。

デスクの椅子はお世辞にも、座りやすいとはいえず、長時間過ごす場所は、ほぼベッドの上、ということになります。

そして、ドアの外に出ることは一切許されていません。
各フロアに警備員がおり、夜中も、見張っています。

食事は、3食、お弁当。温めてありません。数も多く、配布などのことを考えると、文句を言える立場でないのは百も承知ですが、日本食嬉しい、などと思っていても2日目くらいになると、暖かいものが食べたい、、と思うもので。ペットボトルの水もしくはお茶が毎食一本ついてくるのですが、お味噌汁などはなし。部屋に装備されているのは電気ケトルに、スティックのコーヒーとスティックの粉のお茶(とても不味かったです)。

お弁当のクオリティーは、そこまで悪くないのですが、チキンの揚げ物、チキンの照り焼き、などチキンが続き、朝食にパンが出たのは一度だけ、牛肉、お魚も一度だけでした。お弁当は配られる前に全館放送で、これから配るので、ドアを開けないでください、とアナウンスが入り、配り終えると、配り終わったので、ドアを開けてお取りください、その際、マスクを忘れずに、と言われます。

ゴミは、可燃ゴミ、ペットボトル、それ以外、と自分で分けて、袋に入れて、ドアの前に。

部屋はあまりに狭く、スペースは、ドアの前のみで、ストレッチをしようにも、手や足をぶつけないように気をつけなければ、あざだらけです。

ホテルを出た後、電話の歩数計を見たら、滞在中、1日の平均歩数は23歩でした。

朝は、6時半に、アナウンス。その日ホテル隔離が終わる人たちは朝、朝食前に退所に向けての検査があるので、検査キットをドアのノブにかけますので、準備をするように、とピンポンパンポン、とアナウンスが入ります。ぐっすり眠っていると、暗闇で、何が起きたか分からず飛び起きました。

7時には、検査のために採取した検体を、係員が一部屋づつ取りに伺うので、ドアをノックされたら、直接手渡ししてください、とのアナウンス。

8時には、チェックイン時に渡された、体温計を使い、指示された、専用サイトに、体温、体調などを入力を忘れずに入力。

前後して、朝食を配りますので、ドアを開けないでくださいのアナウンスに、配り終わりましたのアナウンス。ということで、朝から結構賑やかです。

到着日を0日目と考え、3日間の最終日の朝、検体を提出、ネガティブであれば、その結果が出て、夕方4時くらいには、飛行機の到着地、羽田に戻されます。が、この検査結果の出る時間が、入国者数などにより、日によってまちまちで前後に大きくずれ込むことがよくあるため、羽田に帰ることのできる時間が読みづらく、希望者は、もう一泊し、翌朝10時にホテルを出ることも可能でした。

私も空港から、ハイヤーで自主隔離場所まで行く予約の都合で、夕方は時間が曖昧なため、それを諦め一泊余分に過ごし、時間がより読みやすい翌日の10時のバスを選択しました。前日の午後1時までに都合を聞いてもらえました。

🌟これから、ホテル隔離の予定がある場合は、常温保存のミルクなどがあると小さい冷蔵庫に入れておいて、コーヒーに、粉でないミルクを入れられたり、シリアルなどを持っていけば、少し小腹が空いた時などにも便利です。そして、インスタントのスープや味噌汁などを持っていくと冷たいお弁当もだいぶ喉を通りやすいと思います。カップ麺などもいいですね。

もしベジタリアンだったらお弁当はどうなるのだろう? アレルギーに関してはチェックイン時に確認してくれました。

ホテルで、隔離者のお世話をしている検疫の皆さんも、朝早くから夜遅くまで、一生懸命、縁の下の力持ちとして、防護服を着て、朝7時に皆のドアをノックして、検体を集めたり、お腹が減ったという人のカップヌードルの配布を味まで確認してくれたり、働いていてくれました。感謝です。

やっとやっと、外に出られる!

羽田に向けてバスが出発。

自主隔離の残りの日々については、この次に続きます。





一時帰国のあれこれ 羽田、到着

20/06/2021 § コメントする

無事、飛行機が羽田に到着しました。時計を見ると日本時間2時45分。

手続きやターミナルの混雑などの都合で、しばらく機内待機していただく場合があります、
とアナウンスがありましたが、10分もせずに飛行機から降りることができました。

到着の前に、2回目の機内食、朝食にあたるご飯を、ぐうぐう寝ていて、食べそびれそうになった私に、日本航空の優しいクルー(6月5日ロンドン出発、JL44便に乗務なさっていた、下鴨様、おせわになりました)は、お目覚めですか?お食事、食べられますか?と聞いてくれて、機内は、もう皆さん、食べ終わっていたタイミングにも関わらず、持ってきてくださいました。この時、完食しておいて、本当によかった。とあとで思うのです。

機内からドアを出て、ブリッジを歩き、ターミナルビルに入ったところで、複数の係員さんに、いきなり、降機者皆、呼び止められ、Ipad miniくらいの大きさの、緑色のラミネートされたカードに、紫のゴムがつけられているプレートを手首につけられました。あとでわかるのですが、これは、ホテル隔離が必要な人の印でした。その時は何が何だか分からず、されるがままに手にぶら下げて、係員に言われるままにターミナルを歩くと、2箇所くらい、前出の検疫の質問表のQRコードをチェックしたり、コロナの陰性証明を見せたりするデスクを通過。

次が、唾液によるコロナテストです。

小さなキットを渡され、ブースで唾液を採取、係員に渡し
次のセクションは、入国に際しスマホにインストールしなければいけないアプリ3種類の個人チェック。

一人づつ係員がべったりついて、全て間違いなくインストールされているか、位置情報がオンになっているか、などなどチェックして、次に、またまた、一人一人、デスクに呼ばれ、メールアドレスのチェックをされて、そのメールに確かにアクセスできるか、試しのメールを目の前で送信され、受信をしているかの確認。

ここまでは、流れ作業で進んでいきましたが、次は、コロナの、先ほどとった検体の結果待ちのスペースへ案内されます。

手首にプレートがある人は、右へ、プレートのない人は左側のスペースへ分けられて、外の見える大きなスペースで、1メートルくらい離されたひとりづつの椅子がたくさん空いている場所で、待機するように言われます。

2時45分にランディングして、ここに辿り着いたのが、16時20分でした。

そこから、5−6人づつ、検体番号で、結果が出たのでこちらへ、と呼ばれるのですが、私が呼ばれたのは、3時間以上たった、19時30分。

明るかった外は、真っ暗になっており、トイレも、自販機もない結果の待機場所で、一緒にいた人によると、自販機もトイレも、一つ前のアプリチェックをしたところまで、戻らねばならず、自販機は、釣り銭切れで suica などのカードか、ぴったりの小銭を持っていないと買えなかったそうです。それも、いずれも、係員に同行してもらわないと行くことができません。

お水を持っていた私は幸いでした。

次に、こちらでバスをお待ちください、と言われ、またしても、待つことしきり、バスに乗り込んだのは、20時45分で、このバスに乗るときに、緑の札を回収され、そういうことだったのね、と理解したのでした。

どこへ連れて行かれるか分からないまま、バスが出発、ホテル近くまで、きたものの、前についたバスの乗客のチェックインがまだ終わっておらず、待機する用意言われたとのことで、待つこと15分。 ここで、22時半。

ついたホテルは、全棟貸切の、アパホテル両国。ひとりづつチェックインを済ませ、滞在中の注意事項、説明など受け、荷物とお弁当をもらい、やっと憧れの部屋へ!

部屋について、時計をみたら23時を回っていました。

12時間くらい何も口にしていなかったので、お弁当をウキウキしながら、とるものもとらず、開けて食べようとしたら、、、おかずはあるのですが、ご飯がありません。持ってくるときに忘れたのか?と思い、電話をしてみたら、

「実はご飯は11時をすぎて賞味期限が切れてしまったので、なしなんです。」

自己責任でいいからご飯欲しい、と粘ってみましたが、そういうわけにいかないんです、、とその晩はご飯なしで、おかずだけいただき、ベッドに潜り込みました。はて、ロンドンの家を出てから、何時間経ったのかな?と計算しようと思いましたが、あっという間に夢の中へ。。

🌟この、空港に到着してから、ターミナルを出るまでの間、数百人のスタッフ(主に、若い女性)が、青いジャージの上下のユニフォームに、マスク一枚で、帰国者たちに対応していました。エプロンや手袋をしているスタッフもいましたが、ほとんどの方が、マスクのみ。大丈夫なのでしょうか?せめてもうすこし、PPEを充実してあげてほしい。

また、この長い待ち時間、乳幼児連れのお母さんをたくさん見ました。みなさん、荷物をたくさん抱え、ぐずる子供をあやしながら、多量の書類を出したり引っ込めたり。泣いたりしないように、抱っこして歩き回ったり、本当に大変そうでした。せめて、乳幼児連れや、年配の方は、優先してあげられないのか?見る限り、なんの配慮もなされていないようでした。

この過程のあらゆる場面で、あっちの紙を出したり引っ込めたり、もらったり渡したり。まとめておける、クリアファイルと、それをすぐ出し入れできるバッグをお勧めします。

ちょっとした、スナックと飲むもの、持っているといいかもしれませんね。

隔離ホテルは、話によると、両国か、横浜の、アパホテル、数日前から羽田隣接のホテルも使われるようになったようです。

続きます


一時帰国のあれこれ 飛行機が飛ぶ前に

20/06/2021 § コメントする

一時帰国しました。
その顛末、まとめておこうと思います。どなたかの参考になれば、とともに、自分の記録用に記しておこうと思います。

2回のコロナワクチンの接種(イギリスなので、アストラゼネカ、8週間隔で、腕の痛み以外なんともなし)
が終わってひと月以上経ち、抗体もついたと思われることと、これ以上待っても、すぐには、状況は劇的に改善しないと思い、帰国を決意。

で、帰国しようと決めた出発日の2日前、朝起きたら、イギリスからの入国者は、政府指定のホテル隔離を3日から6日に伸ばす、という決定報道。イギリスでの、デルタ株の拡大が原因です。閉所が苦手な私、6日耐えられる自信がなく、慌てて出発を前倒し、翌日の3日の隔離で済む最終便に飛び乗りました。

日本入国のための、陰性証明
コロナ陰性証明書の取得も前倒しです。急遽予約を変更。出発前72時間以内のため、当日、ヒースローでも取得できるのですが、万が一のことを考え、1日早くルートン空港で、取得することとして、ドタバタとスーツケースに荷物を放り込みました。

出発前の検査は、日本政府の陰性証明のフォーマットにも対応してくれると、イギリス日本大使館から、お墨付きの会社 

Collinson
https://www.collinsongroup.com/en/covid-19-testing

で、LAMP 検査です。

ルートン空港の 中期駐車場の中に設けられたドライブスルーで、鼻に綿棒を入れての検査を車から一切降りず終了、日本政府の指定したフォーマットを取り出し、結果はこれに記入をお願いしたところ、

「ここルートンには、ハンコ(社判スタンプ)がないから、できないよ」

と言われてしまい、困惑の私。コマリマス。
大体、外国でハンコとかスタンプとか習慣がないのに、それを求める日本政府。ハンコ、やめるんじゃなかったっけ?

困ります、と食い下がる私に、メールアドレスをくれて、1時間くらいで、検査結果をメールするから、ここにメールして結果とフォームをPDFで送って、記入して送り返してもらって!と言われてしまい、こういうことがスムーズにいかない国と、骨身に沁みてわかっているので、メールが戻って来なかったらどうする?とさらに食い下がると、ヒースロー出発なら、そこにはスタンプあるから、早めに行って、英語の証明書を、ヒースローターミナルにある同社のカウンターで記入してもらってと、言われました。

結果ですが、陰性の証明がメールで届いてすぐ、言われたメールアドレスに、メールをしたら、10分もせずに、日本のフォーマットに、スタンプも押して、送り返してくれました(驚)やればできるんじゃないか!

めでたし、めでたし。

で、無事、ヒースローへ。


飛行機が飛ぶ前にーチェックインカウンターで、これらのアプリのQRコードがわかりやすい場所に表示されています

入国に関する質問表の記入と、QRコードの取得 ー これは検疫からの質問フォームで、14日間の自主隔離の滞在場所などを記入。到着後、結構すぐの段階で、表示を求められるので、QRコードのスクリーンショットをとっておくとさっと提示できます。

入国に際して、必須とされるスマフォアプリ3種類のダウンロード ー 

Overseas Entrants Locator(居場所チェックGPS)

MySOS(ビデオ電話用、多分このアプリにも居場所チェックを兼ね備える機能を持たせる方向)

COCOA (厚生労働省の、コロナアプリ)

これらは、空港で、出発する前に、WIFIが安定して使える状況で、ダウンロードしておくと安心です。

ただ、入国に際して必要な上記の3つのアプリは、ログインできなかったり(入国後パスワードがくる)するので、ダウンロードしておくだけでOKです。

では、飛行機に搭乗して、長いフライト頑張りましょう

お断りー以上は、日本に6月6日の到着した時の情報です。

続く

ピップくんとのお別れ

23/07/2020 § 2件のコメント

ピップくんが、18歳4ヶ月で、私たちから旅立ってから、今日で4ヶ月が経ちました。

今まで、心の中の整理がつかずどうしても向き合うことが怖かった自分の気持ちも、文字にできるかもしれないと思えるようになりました。

昨年11月に18歳の誕生日を迎えるまで、少しのんびりになったかな?くらいの変化しかなかったピップ先輩。1時間半の散歩も、一緒について来て、しっかり散歩、しっかり食事、それ以外は平和に、お気に入りの場所で寝ている毎日。

その誕生日を過ぎて、クリスマスを過ごし、一月の半ば頃から、時折、粗相をするようになりました。

お尻の綺麗な子で、ウレションやアテうんなど全くない子だったのに、我が家のパティオから、外の芝生に行き着く前に、かりんとうが、もれちゃった?から始まり、家のドッグフラップから出る前に、ちょっと、、、という失敗。

ずっと夜はクレートの中で眠っていたのですが、今まで決してなかった、クレートの中での、お漏らし、が起きるようになって、階下のシャワールームに、ゲートをつけて、クレートとトイレを置き、寝せるようにしました。

そして、散歩も、少しづつ疲れやすくなって、ドギーカートをもっていくようになり、疲れたら載せるという状態から、二匹連れて散歩に出るも、ピップだけ家にもどし、それからブロッサムだけを連れ、もう一度出ていくというようになっていきました。

なくなる一月くらい前から、トイレに間に合わないことが増えて来たので、獣医にいき、年齢が年齢なので、積極的な治療は考えていないことなどをじっくり話し合い、痛み止めだけ処方してもらうことにしました。

痛み止めを始めるとトイレの失敗も減り、少し落ちていた食欲も一時的に復活しましたが、食欲はまたすぐに落ちて来て、平常の半量を食べるのがやっとになっていきます。

なくなる10日前、それまでなんとか、食べていたピップさんが、突然、一切、食べることをやめました。

大好きなチーズも、肉もソーセージも、もちろんドッグフードも、ナマ肉も、高級品のウェットフードも、猫缶も人間の離乳食も、とにかく、ありとあらゆる物をあげてみましたが、プイッと横を向くばかりで一切食べません。

水だけは、飲むので、スープのように食事をミキサーにかけてみたりもしました。

家族会議を開き、獣医さんに点滴してもらう、などの延命をお願いするか?などと話しましたが、家族の結論は、「それはやめよう」

絶食でどれだけ持ちこたえるのか?

ピップくんを愛してくれた、友人たちに声をかけて会いに来てもらうことにしました。

連絡すると、皆、駆けつけてくれました。

アマゾンで、子供用にビニールプールを買い、その中にベッドとタオルを敷き、その日からその横に布団を敷いて一緒に寝ると共に、誰かがいつも見守ることができる様に家族に協力要請をしました。

なくなる7日前、バギーを持ってブロッサムと一緒に車に乗せて、歩きやすい場所へ散歩に行きましたが、まだ、一緒に30分くらいは歩いたのです。何も食べておらず、ウエストがキュッと引き締まってしまって、たまに後ろ足が、上手に動かなくなっても、元気にトコトコ歩いていました。

ちょうど桜も咲いたので、バギーで、見せてあげると、一生懸命匂いを嗅いだりもして。

もしかしてこんなに歩けるなら、奇跡が起きて、またご飯を食べてくれるかも、と色々あげてみるも、やはり、一切、断固拒否。

少しづつ弱っていく姿を、じっと見続けるのは辛かった。

また、イギリスでのコロナウイルスの影響が大きくなりつつあり、私自身、それでなくても心が安定しない日々を過ごし、ついに、よろめかず、真っ直ぐ歩くことも少し危なくなって来ました。

そんな、明け方、プールの縁を乗り越えて!トイレに行こうとしたピップさん、ドッグフラップから自分で出ていき、8段の階段を降りて!トイレに行くという快挙をやってのけ、強い子だねえ、なんて家族で泣き笑い。

でもその日の夕刻、キューン、キューン、と今まで聞いたことのない声で泣き始め、明らかに辛そうで、私たちも今までとは違う、と気づかされました。

離れて暮らす長女に、ビデオ通話を繋ぎ、呼びかけてもらい、少し落ち着いたのでほっとして、私たちも、ピップをプールの中のベッドに寝かせ、急いで食事をして、ケーキを切りました。

奇しくも、息子の27歳の誕生日だったのです。

8時に、ジョンソン首相から、大事なお知らせがあるとのことで、テレビをつけると、

「コロナウイルスの感染が止まらず、このままでは、最大50万人がなくなるという予想が出ている。今から国をロックダウンします。」

大変なことになったね、と家族で慌てていると、またピップくんが、苦しそうに泣き始めました。

キュン、キューン、と泣き続け、止まらず、一生懸命抱っこして、大丈夫大丈夫と、話しかけ、家を歩き回り続けましたが、止まりません。身体中に力を入れて、泣き続けていました。タオルで包んで、歩き回りながら、きつくきつく抱きしめることしかできず。

家族全員で、今まで覚悟していた決断をしました。

「終わりにしてあげよう」

イギリスのドックトレーナーさんや、友人たち、言われていました。

「その時が来れば、犬が教えてくれる」

かかりつけの獣医さんは、夜だったので、電話は転送され、夜間の診療をしてくれる提携病院である、王立獣医学校の病院に予約を入れ、子供たちは、お別れを告げて、私はピップを抱きしめて、車に乗り込みました。

病院に到着するまでの道のり、ピップの呼吸が乱れ、泣き止んで、顎が上がるようになって来ました。意識が遠のいているんだなあと思いつつ、ピップ、いくなら今だよ、と心の中で話しかけていました。

病院に到着すると、寒空の下で、獣医さんと看護師さんが、建物の外で待っていました。

そこで告げられたのは、コロナの感染防止のため、病院内に入ることができるのは一人に限ること、なので、どちらが付き添うか、決めて欲しいという大変、厳しい選択でした。

そして、ピップさんをちょっと預かりますね、と言い優しく抱っこして院内に連れていきました。

しばらくするとピップさんは前の右足に、綺麗に包帯を巻かれ、点滴の準備をして出て来ました。

夫はピップさんに最後のお別れを言い、車に戻り、私が抱いて、院内の診察室に入り、

「心の準備ができるまでいつまでも待ちますので、一度部屋から出ますね」

と言って、獣医さんは部屋を後にしました。

ピップくんを、固く固く抱きしめて30分ほど今までの、感謝と思い出話をし、数分おきに顎が上がってスーッと意識を失う彼と二人きりの時間を過ごし、泣きながらセルフィーを取り、獣医さんが戻って来たので、自分の口で、準備ができました、と伝えました。

ギュッと抱きしめながら、点滴につながれた麻酔薬が注射され、今まで固く力の入っていたピップくんの体からふわっと力が抜けて、目がちょっと開き、ピップ先輩は、旅立ちました。

その瞬間、ふっ、とほっとした顔に感じたのです。

それは、私にとって、大きな救いになりました。

3月23日、夜の11時15分くらいのことでした。

家に連れて帰っても、ロックダウンで火葬する施設にも連れて行かれない可能性が高いと言われ、泣く泣く病院に、火葬する手続きをお願いして、ピップくんを獣医さんに託し、夫と号泣しながら帰路につきました。

コロナがなければ、一緒に連れて帰りたかった。

一晩一緒に過ごしてお話ししたかった。お花でいっぱいにして、送ってあげたかった。

ピップは、自分で自分の引き際を悟ったんだろうな。という気がします。

最後まで潔いジャックラッセルだったね。

あっぱれです。

私の短くない人生の約三分の一の時間を、夫や子供たちや、他の誰よりも長い時間を一緒に過ごし、右も左も分からないイギリスで、どうしていいか途方に暮れていた私に、ママ友でもなく、仕事仲間でもなく、真の友人たちという居場所を作ってくれました。

末っ子が4歳で学校に通い始めた時から、長女が29で結婚するまでの、我が家のイギリス生活の全てをずっとじっと見守ってくれるました。

小さい、”たかが” 犬ですが、私と我が家にとって、大きな大きな大事な存在でした。

虹の橋のたもとで、再会できる日を今から思っています。

ありがとね、ピップ先輩

17歳と7歳

10/01/2019 § 4件のコメント

大変ご無沙汰しました。なんと一年近く放置のこのコラム。

ピップは昨年の11月25日で、17歳。
食べムラがあり、食べないこともあり心配する日もありますが、まあそういうこともあるかと、鷹揚に見守っております。ブロッサムもなんとかたまにお腹が痛いなりに、頑張っております。

昨年、新しい獣医に行き、結局、その獣医さんと、慢性膵炎じゃないに違いない、と二人で、話をし、新しい薬を試したところ、どうやらそれが効いて(奇跡)お腹が痛くなっても、そこまで激痛に襲われることもなくなりました。

本当に原因はやはりわかりませんが、食事も、なま肉の時間をかけて切り替えつつあり、コントロールしております。

気まぐれ更新、今年から、ぜひ、したいと思う一月であります。

冷蔵庫

28/02/2018 § コメントする

今週の寒いこと。。
ものすごく晴れた週末、お出かけしたのは、こんなところ。

Stowe House

相変わらず、とめどもなくでかい邸宅に、あくまでも自然に見えるでも計算して作られたランドスケープ。大好きなスノードロップがあるよ、というので行ってみました。

写真で気温は見えませんが、まあ、寒いこと。

で、翌日から、冷蔵庫以下の気温が続く週になるそうで、早速、雪です。

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‘beast from the east’

だそうで、東からの冬将軍とでもいうのかな? 強い寒波が来ています。

春はまだお預け、、、ということなのでしょうね。

穏やかに暮らしています。

工事うつ – イギリスで家の工事、顛末記

06/02/2018 § 4件のコメント

更新が滞った理由として、大きかったことの一つに、家の工事をしていた、ことが大きい理由でした。

昨年の4月から、家の増築工事をしておりました。3ヶ月ほどで終わると言われていたのに、実はまだ終わっていません。

このままだと一年かかってしまうのか?

何しろ、日本と違い、何事も、予定通りいかないこの国。覚悟はしていたものの、これほどまでとは思いませんで。。。すっかりプライバシーも、平和も、心の安定も欠いたまま、10ヶ月。

工事が始まり、すぐに、なんの連絡もなく、誰もこず、説明もなく、電話の応答もなく、、、

それはそれは、まるで、我慢比べのような日々が続きました。工事、98パーセントは終わりましたが、まだつづいています。

この国に来て、早20年近く、相当のんびりした性格になったと自負しているものの、あまりの想像を絶する事態に、怒るやら、呆れるやらの毎日が一年近くも続いており、それこそ、プチ鬱状態が続いたのでありました。

デスクに座る心のゆとりもなく、ご飯を食べようとすると職人さんがいきなりあわられたり、見ていないと、ブロッサムの口に、チョコレートを放り込んでいるのを見たり。

ということで、聞いてほしい、まだ、未だ終わっていない工事のお話です。

続く

*****

わんこの日常はこちら

https://www.instagram.com/n208hh/

永い言い訳

05/02/2018 § 1件のコメント

IMG_3237映画を見ました。

Japan Foundation Touring Film Programme 2018

という、イベントで日本映画を集中して上映するプログラムで、私が見たのは、西川美和監督の

The Long Excuse 日本名、永い言い訳 です。

日本では2016年に公開されたようですね。誘われて、映画に関する事前情報まったくなしで、いきなり会場に行くという、まっさらの状態で、見せていただきました。

評論家でもない自分の感想は、さておいて、自分の大好きなタイプの、どストライクの映画でした。ドンパチするわけでもなく、殺人が起きるわけでもなく、人間の普遍的な営みと日々の生活をベースに、人間をあぶり出して行く、という大好きな展開。

余韻に浸りつつ、じっと見ていたエンドロールの、企画協力に、是枝監督の名前を見つけ、「なるほど〜」と深く納得。

主演の、本木雅弘さん、おくりびと、以来の主演だとか。

ロンドン在住ということもあったのか、上演前にご挨拶くださいました。

共演陣も、深津絵里、黒木華、竹原ピストルさん達がそのまま、そこに存在し、二人の子供の役者さんには、深く脱帽。

しかし、女性監督なのに、男の人のことがよくわかるんだなあ。。。

そして上演の後、再び本木さんが、ご登壇くださり、質疑応答に応じてくださいました。合計45分ほどこの役に対して、また、それ以外のことを色々お話しくださり、終了後、出口で待ってくださって、来場のみなさんと、それぞれ写真も一緒に撮らせてくださいました。私もちゃっかり隣に立って、写真を撮らせていただきましたよん。

見たばかりの役のイメージをひきづっていたわたしは、実際のご本人の繊細そうな佇まいに、驚きながら、そうだよな、あれは役だもの、と。シブガキ隊の頃のイメージもあいまって、不思議な感覚でありました。

面白い再会もあったのですよ。

この質疑応答や、挨拶の間、通訳を務めていた写真右側の女性、実は、2012年ロンドンパラリンピックのボランティアで、一緒にバスケットアリーナで通訳をした、通称、「べっちゃん」

相変わらず、めまいがするくらい素晴らしい通訳で、ぼれぼれ。すごい人だなあ。。あのレベルの通訳さんは滅多にいません(断言)

べっちゃんとも短いけれど、話もできたし、映画は楽しんで、心の中から満足して、ホクホクした気持ちで、小雨降る、寒いセントラルロンドンから帰宅したのでした。

わんこたちにも会いにきてね!

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遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

04/01/2018 § 2件のコメント

IMG_2928ご無沙汰してしまいましたが、2匹とも、そして家族も皆つつがなく暮らしております。

すっかりサボってしまった更新ですが、また、復活したいな。ピップは昨年11月で16歳になりました。でも、元気です。まあ、ちびちびありますが、大したことなく、いい感じ。
ブロッサムも慢性膵炎の発作はありますが、なんとか、付き合いながら暮らしています。

2018年は、さて、どんな年になるのかな?

よろしくお願いいたします。

6歳だよ

02/06/2017 § 1件のコメント

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生後7ヶ月で我が家にやってきた、ブロッサムさん、昨日6歳になりました。

膵炎や、色々あるけれど、長生きできないかもしれないけど、精一杯一緒に楽しく生きていこうぜー!

ロンドンは季節が進んで、初夏。バターカップ、日本名、キンポウゲの花が、盛りになってきました。黄色い小さい花、開花すると茎がぐんぐん伸びてきます。この花が終わると短いけれど、本格的な夏がやってきます。

 

04/04/2017 § コメントする

ロンドンに引っ越して、本当に良かった、と思うのは、庭が持てたこと。写真は今咲いている花の一部です。

春になって、庭に花が咲き始め、リスが走り回り、鳥がうるさいくらいやってきて、狐も横切って歩き、犬が、走り回れる。こんなに気持ちを落ち着かせれくれるスペースを持つことができるのは本当にラッキーです。

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週末、家族総出で大掃除をしました。庭のシェド(道具小屋)も整理整頓。

そうそう、イギリスでは、大掃除は、春にするものです。不要物を車に満載して、持って行ったエリアのリサイクルセンターは、朝から渋滞しておりました(笑)イースターの前に、大掃除。皆同じなのかもですね。

夏時間も始まり、夕方7時半近くまで明るくなりました。穏やかに暮らしています。

春なのに

27/03/2017 § 6件のコメント

ずっと更新が滞ってしまいました。

春が来て、そこかしこに水仙が咲き、目がさめるような柳の新緑に見惚れて、庭のチューリップまで、色づいて来て、ロンドンでは、テロも起きたりして、でも、毎日、変わらず過ごして、普通のふりをして暮らしています。それなのに、どうも自分の気持ちが落ち着かず、地面に足がつかず、どうも、ふわふわ。

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父が、いなくなってしまったことが、心の奥の側面に、頑固な鍋の焦げ付きのように張り付き、自分自身で、戸惑っています。

亡くした直後より、今の方が、キツイ気が。

桜を見て、杖をついた人を見て、落花生を食べて、いちごの、あまおうのニュースを見て、その度に、もう2度と、父はこの花や、大好物をたべられないのだな、最後に食べたがったのは、あまおう、だったなぁ、などと考えてしまい。。

先週、父が生前、公証役場に預けてあった、遺言書が開示されました。

内容はすでに本人から、口頭で、とりあえず、全部、ママにゆずるからな〜、と、聞いておりました。が、国際郵便で、コピーが、執行人から送られて来ました。

遺言の本文の後に、(付言事項)というコラムがありました。

そこには、

「私は、妻と永年苦楽を共にし、幸福な家庭を築いてこれたことを大変誇りに思っています。子供達も立派に成長し、それぞれの家庭を築き上げてくれたうえ、可愛い孫たちにも恵まれ、実に充実した人生でした。私は人生を共に歩み、私が倒れた後も懸命に世話をしてくれた妻の生活を第一に考え全財産を妻に全て相続させることにしました。妻のおかげで本当にいい人生だったことを心から感謝しています。共に生活している長男には、、いつまでもお母さんが心安らかに生活できる様お願いします。(弟)も、(私)も、私の自慢の子供達です。それぞれが、それぞれの立場や環境の中で堂々と人生を歩んでいけると信じています。これからもお母さんの面倒をよく見、自分たちの生活もしっかり築き上げながら幸せな人生を送ってください。 以上 」

人生の最後に。母への大ラブレター+私たちへの応援ですね。これには、ちょっとやられたな。

父は、尊厳死にも、自筆の捺印された書面を残していました。病気その他、回復の見込みがないと判断された場合は、延命処置等、することなく永眠させる様に申し渡します。と書いていました。

そう書かれていて、頭でわかっていて、結果的に希望どうりになった、と言えるけれども、残されたものは、どうあっても、たら、ればと、悶々とするのでしょう。

今日、毎週月曜の脳卒中の患者さんのための、犬を使ったリハビリのボランティアに、ぶうちゃんと出かけ、新しくいらした患者さんにお会いしました。その方の後遺症は、父の脳梗塞の後遺症と、とても似た症状で、左足を引きずって、左手を庇いながら歩く姿が重なり、本当にセッションの途中で、突然、思わず、スイッチが入ってしまい、危うく泣き出しそうになり、トイレに逃げ込んだのでした。

俺は、今年いっぱいの命だ、と自分で言っていて、その予想は大当たりでしたが、昨年11月、大好きな相撲を見て、(それ以降、大好きなテレビも見る体力もなくなった)「稀勢の里は、きっと横綱にはなれないな〜」という予想は、大外れでしたよ。

さっき、ニュースで、相撲の結果を見て、またまた、スイッチが。。

2匹のワンズ、ピップとブロッサムによく、父の話を聞いてもらっています。

二人とも、じーっと話を聞いてくれて、たまに、ぺろっと舐めてくれます。

本当に、ありがたい。

悲しみのスイッチに触れないように注意しつつ、ふわふわしながら、日々暮らしていても、私には、忘れずに、花粉症がやってきました。

さて、顔あげて、元気だそう! 私!

 

 

うさこちゃんとミッフィー

21/02/2017 § 6件のコメント

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我が家にある、この貯金箱。後ろに、ASAHI BANKと書いてあります。

ロンドンに引っ越してくるとき、持ってきたのでしょうね。調べるとあさひ銀行も、今はもう存在しないのですね。ずいぶん前に日本を出てしまったので、銀行の名前など、何が何だかさっぱりわからなくなっています。

この貯金箱、ロンドンでも、結構、活躍したのですよ。
No1こと、長女が大学生になって家を出たとき、寮の洗濯機を使うには、使用料を20ペンス硬貨を機会に投入しないといけなくて、大量の硬貨が必要となり、ママも集めて〜と頼まれ、せっせと買い物のたびにこの貯金箱に入れて、帰ってくるたびに渡したものです。

日本にくる前、No2が、まだ3歳か、4歳だった頃、家にあった、ブルーナの絵本(タイトルはどうしても思い出せません)を読んであげたときの話。

ミッフィーちゃんのお父さんとお母さんが出てくるお話で、確か、スーツのような服を着たお父さんが出てきます。

「お父さんはどこへ行くのかなあ?」

と私が尋ねると、「かいしゃ」と答える息子。

次のページは、大きめの一連のネックレスをつけた、ミッフィーちゃんのお母さんが、腕にハンドバッグを持っている絵があり、あまり考えずに、同じ質問をした私に、息子は、再び、

「かいしゃ」と、何の迷いもなく、即座に答えたのでした。

当時、確かに私は、フルタイムで、忙しく働いていました。息子にとってのお母さんは、例外なく毎日仕事に行くのですから当たり前といえば、当たり前。幼い子を持ちながらも、働きつづけることに、信念を持っていたつもりでしたが、この、何気ない会話で、お母さんは、かいしゃ。と悩むこともなく即答した息子を見て、なぜか、いたたまれない気持ちになったものでした。こんなに時間が経った今でも、そのときの気持ちは忘れられません。そこには、いつも時間がなくのんびり接してあげるゆとりが無い事を自分を、少し負い目に感じていたからなのでしょう。

そして、ほんのつい先日、バレンタインデーに、オットとコンサートに出かけた、ロイヤルフェスティバルホールの一角に、ミッフィーのお店が特設されてました。あの、赤、青、緑と✖︎の形の口。キャラクターグッズや本が、売られていました。そうそう、イギリスでは、ミッフィーは日本ほど皆に、知られていないのですよ。児童書の棚にも、あまり見かけません。

オットと、珍しいね、懐かしいね、久しぶりにミッフィーを見たね、などと話をした、ほんの数日後に、作者、ブルーナ氏の訃報が流れてきました。

ミッフィーがまだ、うさこちゃんだった頃、その昔、茅ヶ崎の海辺に住んでいた時、大好きだった「うさこちゃんとうみ」というタイトルのあの、四角い絵本。なんども、なんども読んでもらった記憶があります。この本の表紙の、うさこちゃん(まだミッフィーではなかった)の水着姿は、海水パンツのみで、幼心に、女の子なのに、どうして海水パンツだけなのかなあ?と不思議に思っていた自分を鮮明に覚えています。そして、海でたっぷり遊んだ後、木でできていると思える、四角張った、運搬車に乗せてもらって自分で歩かずに帰ってこられるのは、うらやましいなあ、と思ったこと、などが記憶のそこから蘇りました。そういえば、女の子だと信じていた私ですが、ミッフィーは本当は男の子なのだろうか?女の子なのだろうか?

そして、あの三角の海水パンツは、今日、2回目の月命日の父が、当時、海に行くときに履いていたものに似ているなあ。と。

オランダで生まれた、うさこちゃんも、ミッフィーちゃんも、そして、作者のディック ブルーナさんも、こんな風に、世界の人が、愛してくれて、共に育って来た事をご存知だったのでしょうか?

ブルーナさんの、ご冥福を心から、お祈りいたします。

******* 我が家の2匹のワンズは、とっても元気です。

ぜひ、2匹に会いに来てください。2匹の写真日記は、こちらです。

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5年目のうちの子記念日

28/01/2017 § 2件のコメント

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ピリッと寒く、深い霧の日が続きました。
芝生も、池も凍りつき、公園はほぼ貸切。 こんな日が、最近は大好きになりました。

以前は、寒い季節はあんなに苦手だったのに、人は、変わるし、慣れるものです。

今日は、ブロッサムを引き取って5年目の記念日。

あれから、もう5年。

たかが犬と言われるかもしれませんが、私にとっては、ブロッサムやピップは、私のロンドンでの居場所を作ってくれた、かけがえのない、何者にも変えられないバディーたちです。

一日も長く、元気に一緒に暮らせますように。

神様お願いします。

 

父のこと

16/01/2017 § 8件のコメント

年が明けて半月も経ってしまいました。

昨年、12月も押し詰まった21日に、父が他界し、前後、日本にひと月ほど、行っておりました。

享年80歳。

10年以上前に心臓手術の直後、脳梗塞を起こしてから、左半身の麻痺と、その麻痺した部分の視床痛と共に暮らした晩年でした。

聖人君子でも、訃報が新聞に載る人物でもなかったし、ささやかな人生だったかもしれないけれど、私にとっては、たった一人の父です。

小さい頃は可愛がってもらい、でも、途中、私が子供を持つまでは、距離がありました。が、晩年は、私の子供たちを可愛がってくれて、精神的にも、近づくことができたかな。

国際結婚して、ロンドンで暮らすことになった時、親の死に目には会えないかもと覚悟したものですが、今回、1週間半ほど、病院でベッドサイドに座り、一緒の時間を過ごすこともできたし、少しの時間でしたが、退院もできて、臨終にも立ち会えて、これ以上望むべくもありません。

でも、でも、やはり、さみしいものですね。

残された母が、とても心配です。

こうやって50年以上手を携えて、ともに、生きてきたのですから。

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なくなって以来、母に変わり、私は事務処理に追われましたが、帰国直前、携帯電話の解約の前に、ガラケーの中に入っていた、写真を取り出す作業をしました。

100枚ほど入っていた写真を一枚づつ、マイクロSDに移し、プリントしたのですが、うち90枚以上は、私の子供たちの様々な写真でした。それ以外は、母と見に行った桜の写真と、実家の犬の写真が申し訳程度に、数枚のみ。

カメラ屋さんの店頭で、そのデータをプリントしながら、涙がとまりませんでした。
葬儀の代わりのお別れの会には、ロンドンや、アイルランドから、あなたの可愛がったうちの子供たちも、全員駆けつけて、見送ってもらってよかったね。愛してもらったこと、ちゃんと伝わっていましたよ。でも、日本の葬儀を知らない外国暮らしの孫たちは、日本の習慣を知らなかったので、火葬後、骨が出てきた時、実はびっくりしすぎて、3人とも卒倒しそうになりながらも、なんとか収骨室で、お骨を拾ったのに、気づいたかな?

これからも、どこかから、私たち家族を見守ってください。お願いします。